名言をしゃべる犬です。SAKUと申します。
突然なんですけど日本語って難しすぎませんか?
昔から思ってたんですけどね。これ。世界の言語の中でもピカイチの難しさだと思います。今だってピカイチの意味をイマイチ理解せずに使ってます。ハライチの親戚だと思ってます。
そもそも一つの文字に複数の意味を持たせるのはいかがなものかと思う。同じく漢字を使う中国語でも発音で意味を分けてるんですよ。そこを日本語は逆に同じ発音で違う文字をあてはめちゃう。正気か?
というか、そもそも日本語の成り立ちが大陸の文字を日本流にしたもので、「あ」も「阿」が崩れたものみたいな話も聞いたことある人多いと思います。
じゃあ表意文字じゃない?とか思う。成り立ちなんて滅茶苦茶前だから、その意味なんて形骸化してるかもしれないけど。というか「あいうえお」の順番を決めた奴にも一言物申したい。
あいうえお、までは分かる。一番音を出しやすい口の形を並べた訳ですよね?
ただ、なんで次を「かきくけこ」にしたの?母音に子音を組み合わせると別の発音になるのを見つけたのは凄い。褒めたげる。じゃあ「あいうえお」の次が「たちつてと」でも「なにぬねの」でも良くない?
「あいうえお はひふへほ たちつてと」でもいいじゃない。
なんかこの辺のルールが滅茶苦茶なところが日本語の難しいところだと思う。
だからって訳じゃないですけど、僕は会話を適当にする癖がある。
あれは思い返せば思春期に友達ばかりの寮生活を営んでいた事に理由があると思う。
いつだったか、夜の自由時間になにげない会話をしていた時の事だ。
SAKU「これどう思う?」
友人A「ああ…うんぽこだね」
SAKU「ああ…え?」
友人B「うんぽこだな」
SAKU「??????????????????」
わかるだろうか。
言語として成立していない。
そもそも質問に対して名詞で返す事あるか?せめて形容詞をつけて返してくれよと。
ただ、この時僕以外の二人の間では会話は成立していた。ただ頭空っぽにしていただけだが、ニュアンスが伝わっていたので、一応会話が通じているのだろう。
しかし、僕にとっては「うんぽこ」という発音の並びに意味を見出せる事が出来なかった。つまり喃語としての認識だった。
喃語とは、幼児が発育段階で「だあ~」という意味のない言葉の事である。
意味のない言葉、という点において、「だぁ~」にも「うんぽこ」にも大した違いはないのだと思う。
ただ、興味深いのはこの後である。なんと「うんぽこ」が感嘆符のような役割を得て、会話の中に頻繁に登場するようになったのだ。この時、「うんぽこ」という言葉は意味のない言葉から感嘆符としての市民権を得た訳だ。
このクソくだらない経験から僕は「言葉」というものが持つ暴力性と脆弱性について考えるようになった。
つまり、僕たちが話している言語は言ってしまえば「うんぽこ」や喃語と大した違いはなく、前人たちが作り上げてきた偶然によってのみ支えられているのではないか。
そんな脆弱な土台で、言葉というものは僕たちの生活のほぼ全てを支配している。こんな怖いことはない。
ある日急に全ての言葉に意味を見出せなくなって、家族や友人の喋っている言葉が理解できなくなってしまったらどうしよう。そんな不安を抱えながら日々を過ごしている。
まあしかし、ジジイみたいな事を言うが、テレビとかで言っている言葉の意味が分からない。特に最近、コロナが流行ってからだろうか、「それ意味ある?」と感じる横文字が横行し始めたのは。いや、僕より上の世代の人たちはずっと感じていて、僕もそこの仲間入りを果たしただけなのかもしれないが。
例えば「ソーシャルディスタンス」とか、日本語に直訳したらなんだ?「社会的距離」だ。なんだ社会的距離って。普通に「離れろ」でよくないか?何がダメなんだ?
これはあくまで僕が感じている事だし、僕には専門的知識等は全くない。しかし、重要な情報っていうのは、誰が見ても分かるようにするべきじゃないのかと思う。
ソーシャルディスタンスって言われて一瞬で「離れないと!」って思う?まず「は?なんて?」じゃない?
一瞬だと理解できない言葉を使うことによって論点をずらそうとしているのではないかと思ってしまう。なぜなら僕が仕事中に横文字を使うときはそんな感じだからだ。
外資系の人たちが横文字を使うというのは分かる。そういう環境だから。
ただ、そういう横文字を使うときに考えてほしいのは、その言葉はあくまであなたの中で市民権を得ている言葉であって、僕にとっては喃語だぞと。
本当に賢い人っていうのは、知識のエレベーターを高速で上る人ではなく、知識の階段を自由に上り下り出来る人の事だと思う。ん~、自分で書いたけど割といい事言ったかもしれない。今回のサムネにしよう。
いや、こんな真面目を話を書くつもりじゃなかったのになあ。
もっと下らない話をして生きていきたいな。どんな言葉だって喃語と変わらない。いつだって言葉で大事なのは「伝えよう」と思う気持ちだ。そう思う。